昭和18年母が陸軍師団司令部の、タイピストであったことから
福岡県久留米市の陸軍病院生まれ。長崎県佐世保市育ち。父は医師。

幼少より、ゆどう術の手ほどきを祖父今村喜太郎先生より受ける。
中学二年生でアマチュア無線技士取得。後自衛隊無線機等修理に従事

東京の家庭電気店東中野店長から三菱電機で旧丸ビル勤務。
その後電気店で独立したが、自身めまいを発病し、国家資格取得後

海釣りが趣味で、海に近い横浜へ移住。

日本癒導医学研究所を主宰し「ゆどう術施療所」を始める。
定年まで「少年補導員」を務める。

以前施療所の千代田ビル解体により、現在の仮時事務所でゆどう術施療を実施中



著書  「めざせ自律神経活性療法師」より

26頁
じいさんの手は″魔法の手″
私は子どものころ、・・・じいさん(今村喜太郎先生) の所で過ごすのが常でした。

この今村接骨院には二十歳くらいまで出入りした思い出深い場所です(先生は昭和三十八年没)。
私が物心ついたころ・・・柔道大会があると私はじいさんに手を引かれてよく会場に連れて行かれたのもです。

そんなとき、私は審判員席に座らせられ、周囲の立派な髭の老人たちに声をかけられて返事
に困ったり、・・・
会場の雛壇の下ではじいさんが赤と自の審判旗を左右の手に持ち、選手の激しい動きどともに右に左に動き回り、

寝業では選手を覗き込んだかと思うと片方の旗がサッと上がり、一本、それまで」と普段は聞かないような鋭い声をあげるのを、「すごい!」と思って見ていたものでした。

「今村接骨院」に通ってくる人の中には、気のふれている人もい
ました。今で言う失調症や″心の病″といった人たちでしょう。
接骨院の看板には「骨接ぎ」と書いてあるのに、何でそういう人が来たり、その人たちが元気になっていくのか不思議に思ったことを覚えています。

接骨院のある久留米市はプリヂストンタイヤ発祥の地で、会社の役員といった人も頻繁に顔をみせていました。そんなとき、お土産に持って来てくれるのは、タイヤの見本の灰皿が多かったものです。

また、じいさんの長女の一房江叔母が日赤病院の婦長だったこともあって、ァメリカの軍人さんも顔を見せ、クリスマスカードなどをもらったこともあります。

こうした人たちが集まる施術室では施術とは名ばかりで柔道の話に夢中という人もいました。
また、「今村接骨院」は早く治してくれるという評判から久留米の競輪の選手、柔道選手など、スポーツ
選手もたくさん施術を受けに来ていました。

なかには初回で「痛い痛い」とうめいていた人が、施術室でじいさんが「ほうら、ちょっとチクッとするよ」・・・てケラケラ笑い出す人がいたり、「イヤー、楽になりました」とびっくりする人がいたりで、

施術室は毎日がのどかで、にぎやかなものでした。そんな風景を行く度に覗き見していた私には、じいさんの手は不
思議だなと思ったり、魔法の手だなと思ったりしたものです。
・・・