◆「めざせ自律神経活性療法師」より抜粋 26頁〜

●じいさんの手は″魔法の手″

私は子どものころ、学校が休みになるといつも母方(次女・喜代子) の実家である福岡県久留米市西町脚番地の「今村接骨院」という看板を掲げたじいさん(今村喜太郎先生) の所で過ごすのが常でした。

興味津々で施術室を覗いたり、整然と本が並べられた大きな
物置でとりとめもなくページをめくって遊んだことを覚えています。
この今村接骨院には二十歳くらいまで出入りした思い出深い場所です(先生は昭和三十八年没)。

私が物心ついたころのじいさんは講道館柔道五段、北辰流後継者八段の有資格者でした。柔道大会があると私はじいさんに手を引かれてよく会場に連れて行かれたのもです。そんなとき、私は審判員席に座らせられ、周囲の立派な髭の老人たちに声をかけられて返事に困ったり、面映ゆいような思いでじいさんを眺めていたことを覚えています。・・・

「今村接骨院」に通ってくる人の中には、気のふれている人もいました。今で言う失調症や″心の病″といった人たちでしょう。接骨院の看板には「骨接ぎ」と書いてあるのに、何でそういう人が来たり、その人たちが元気になっていくのか不思議に思ったことを覚えています。・・・

接骨院のある久留米市はプリヂストンタイヤ発祥の地で、会社の役員といった人も頻繁に顔をみせていました。そんなとき、お土産に持って来てくれるのは、タイヤの見本の灰皿が多かったものです。また、じいさんの長女の房江叔母が日赤病院の婦長だったこともあって、アメリカの軍人さんも顔を見せ、クリスマスカードなどをもらったこともあります。・・・

また、「今村接骨院」は早く治してくれるという評判から久留米の競輪の選手、柔道選手など、スポーツ選手もたくさん施術を受けに来ていました。

なかには初回で「痛い痛い」とうめいていた人が、施術室でじいさんが「ほうら、ちょっとチクッとするよ」という声とともに患部を回したり引いたりしたとたん、「アッ」と一声発し、痛みが去ってケラケラ笑い出す人がいたり、「イヤー、楽になりました」とびっくりする人がいたりで、施術室は毎日がのどかで、にぎやかなものでした。
そんな風景を行く度に覗き見していた私には、じいさんの手は不思議だなと思ったり、魔法の手だなと思ったりしたものです。

私は昭和十八年、久留米の陸軍病院で生まれ、終戦と同時に長崎県佐世保市(現在のハウステンボス近く) の早岐に移り住みました。

父の実家は『忠臣蔵』でお馴染みの兵庫県赤穂近くの「富永」という地から発した地方豪族らしく、終戦までは家から見える山という山、田畑という田畑を所有していました。しかし、GHQによる農地改革でそのほどんどを失い、家の周りの少しの田畑と、いくつかの山々が残されました。・・・

父(医師)は早岐で農業と無償で医療をやり、私に継がせようと強制していまいしたが、私としては志を変えられず高校を卒業すると同時に家を出ました。 

・・・そうした就職活動を通して出会ったのが宮地勇という新宿の電器店の社長でした。

電気が好きになったのは小学校のころです。早岐の実家の近所に、農業の傍ら電気製品の修理を手がける人がいました。
家には真空管五球スーパーのラジオがあって、・・・よく故障もしました。そんなとき、街の電気屋さんではなく、近所の人が修理に来ていました。小さな部品を切り離し、取り替えると電気がつき、音が出る。

「これが悪かったですね」と・・・まるでマジックのようだと私は感心し、すっかり魅せられてしまったのです。

普段は夏ミカンをつくったり、玉ねぎを植えたりしている人の、どこにそんな神業的な能力が隠されているのかと、私は尊敬の念で見つめたものです。

それがきっかけで、私はお小遣いの中から少年雑誌の広告でラジオ教育研究所の通信教育テキストを取り寄せ、勉強を始めました。小学校三年生になったばかりでした。

当時の小学校の・・・校長先生は当時としては考えられないくらい進歩的な教育者で、校長室のドアは取り外され、常に開放されていました。
そんなある日、校長先生の机の上のアルミの弁当箱に真空管が三本立てられ、ラジオがガンガン鳴っているのにはびっくりしました。髭のなかの回がニヤリと笑い、「どうだ、ビックリしたか!」といわんばかりの無邪気な表情で迎えてくれました。

・・・このときから私は以前にも増して校長室に入り浸りになり、通信教育のテキストの分らないところは聞きに行き、もう電気の勉強にのめり込んでいきました。

・・・おかげで、中学二年でそろってアマチュア無線の試験に合格することができました。二人で送信機や受信機を手作りし、アマチュア無線を大いに楽しみました。淵君は国鉄職員になってからも南極の越冬隊と頻繁に交信していましたし、

・・・こうして電気の知識を生かした仕事に就きたくて、新宿の電器店の宮地社長と出会ったのですが、営業をやるようになると、あれほど熱中したアマチュア無線は自然消滅してしまいました。

・・・その後、別の経営を学びたいを申し出たところ、「将来自分で事業をやるつもりなら、うちみたいな小さいところもいいが、大きいところも見ておいた方がいい」と取引先の城北三菱電機の高橋社長を紹介されました。こうして今は取り壊されてしまった丸の内ビルデイング店、銀座四丁ロスカイリング店などを経験させてもらい、大企業の経営者の懐の深さや、三菱流の経営を学びました。

・・・三十歳を過ぎてから独立し、・・・それまで取り引きでお世話になった店の協力もあって経営は順調で、二年後には店を五つに増やし、・・・独立当初は仕事仲間と離れて独りぼっちになり孤独と不安感がありました。

そんなとき、「毎年暮れには、ケーキを社員に配ってま
したから」と城北三菱電機時代の販促課代大沢さんが訪ねて来られたときは、ひと息つけるなつかしさがありました。
・・・会社のケーキが届けられたの
ですから、部長の渡辺さん、社長の高橋さんにも感謝したものです。

●・・・ところが突然、我が身に災難が降りかかってきたのです。
当時は
朝四時ごろ目覚めるとすぐ仕事に行き、夕方六時?七時までテレビの修理に追われ、店を閉めた後は電気製品の配達という毎日でした。

帰宅するのは十一時くらいになります。店が五店舗に増えればそれだけ体を酷使することになりますが、すべて従業員に任せてしまうこともできず、まさにフル回転という状態でした。

そんな毎日が続いていたある日、

私は激しいめまいに襲われました。そのうえ火がついたような肩こりと、視野いっぱいに花火が飛んでいるような状態で、苦しくてまったく動けなくなったのです。

二、三日寝ていたら少しは苦しい状態も収まってきましたので病院へ行き、内科から外科、整形外科と順次回りましたが原因はわか

りませんでした。毎日が検査づけで、こんなことが何の役にたつのかと疑間に思うような検査までされるしまつでした。

●・・・さらに、昨今の仕事のやりすぎで急性肝炎まで発生していたのです。これには私もお手上げでした。病気は気持ちをなえさせるものです。仕事は順風満帆で疲れさえ感じていなかったのですが、こうなっては体がついてきません。仕事はあきらめざるを得ませんでした。

・・・その後一年間、寝たり起きたりの?らい生活が続きました。散歩するくらいがせいぜいで、将来に希望のもてない日々でした。

そんなとき、

府中に住んでいた叔母がある人の施療を受けるよう勧めてくれました。

その人のもとに五、六回通いました。首筋や背中の筋肉、あるいは神経を施療してくれたのですが、それだけであれほど激しいめまいや痛みがすっかりとれてしまったのです。
璽目天の露震」とはま
さにこれでしょう。子どものころ見たあの「今村接骨院」の施術室で、痛みが消えてケラケラ笑い出した患者さんを思い出していました。

●・・・これが契機となって自律神経活性療法に目を開かれ、さらに勉強したいという気持ちも高まりました。ちょうど上京以来の新聞配達仲間の一人が指圧の学校へ通っていましたので、私も同じ学校へうことにし、夜六時から九時まで毎日勉強し、指圧の資格をとりました。

・・・電気店という業界の人たちのほとんどが、電気製品の重さに腰を痛め、止むなく店を閉じることは身近に目にしていましたし、清涼飲料水、酒屋といった重いものを担ぐ商売の人たちも、同じように定年が早いのも知っていました。

 そうした人たちを対象に、将来は自律神経活性療法をやろうという思いがあったからです。実際、同時期に始めた電器店の仲間の幾人もが、腰を痛めて閉店するという事態に追い込まれていました。